血の繋がりはなくても、そこに確かに親子の絆は存在した話。

ご訪問ありがとうございます。はなでございます。

3連休も最終日。
いかがお過ごしでしょうか。

私はお葬式に参列しておりました。
大叔母(父方の祖母の妹 以下おばちゃん)が92歳で亡くなったのです。
今日はそのおばちゃんの思い出話です。


私は子供の頃、祖母に連れられて、当時大阪の堺にあったおばちゃんの家に遊びに行くのが何よりの楽しみだった。
京阪電車、地下鉄、南海電車と乗り継いで行く堺は、子供にとってはとてもとても遠い特別な場所だった。

祖母は男勝りのアクティブな人だったが、それに反して、おばちゃんは女学校の家政科を卒業しており、物作りやお裁縫がとても上手で優しくて上品な人だった。
一人娘のK姉ちゃんもおばちゃんにそっくりな素敵な女性で、私はおばちゃんとK姉ちゃんが大好きだった。
K姉ちゃんは子供の頃、おばちゃんお手製の親子お揃いのワンピースを着て百貨店に買い物に行くのが何よりの自慢であり楽しみだったそうだ。

つい半年前、大叔父(以下おっちゃん)が亡くなったばかりだった。
生前おっちゃんは、親戚が集まると必ず陽気に酔っぱらっていた。
私が大学で中国語学科に進学すると、酔っぱらったおっちゃんは決まって、
「はなさんは何で支那の言葉なんかやるんかなあ。
わしは戦争で支那に行ってたさかい、支那の言葉がちょっとは分かりまっせ。
日本人のこと、リーベンクイツ(日本鬼子)って言いまっしゃろ?」
といつも繰り返し中国での戦争体験の話になるのだった。
へべれけに酔っぱらってるのでいつも適当に流していたが、今となってはもっと色々突っ込んで話を聞いておけばよかったなあと、とても後悔している。

そのおっちゃんのお葬式で、おばちゃんと手をつないで少しおしゃべりした。
久しぶりに会ったおばちゃんは、車いすで細く小さくなっていた。
ああ、もうおばちゃんに会えるのもこれで最後だな、と思った。
おっちゃんが亡くなって半年足らずでおばちゃんは亡くなった。
夫婦本当に仲が良かったもんなあ。
おっちゃんはおばちゃんがいないと何もできない人だったから、早よ来てくれっておばちゃんを焦らせたのかなあ。

おっちゃんとおばちゃんの間に子供はできなかった。
当時、代理出産なんて制度も技術ももちろん無かったから、K姉ちゃんはおばちゃんが40歳の頃遠い親戚から養子縁組をした「もらい子」だ。
二人はK姉ちゃんを、それはそれは大切に育てた。

棺の中のおばちゃんの顔は、口をぱかっと開けたままだった。
「肺炎でなくなったから、最後苦しかったんやろか?」
と少し心配したが、

横にいた娘が
「おばさん、最後は安らかに亡くなったんやなあ。
苦しかったら歯を食いしばって亡くなるらしいよ。
苦しまずに亡くなったら、口が開いてるんやって聞いた事あるわ。」
と言ってくれた。
本当かどうか分からないけど、何だかほっとした。

最後のお別れの時、
K姉ちゃんはおばちゃんの顔の横にお花を置きながら
「お母さん、産んでくれてありがとう」
と言って顔をなでていた。
そこに確かに親子の絆は存在していたのだ。

 

では(^^)/

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